北区にある、気になってた『鳥居』を調査【第五弾】湖から生まれた村と、湖に沈んだ村。なぜ1500年前の百済の王子伝説と結び付くのか!?

ともみん

神戸市北区、丹生山裏手にある集落。

山深い道を分け入った先、時が止まったような静かな土地で、私は息を呑みました。民家の表札に、確かに「百済」の文字を見つけたのです。

「ほんとに…あった…」

なぜこの山間の地に、千年以上も前に滅びた朝鮮半島の古代国家の名が?

その謎をひもとく鍵は、長い年月をかけて土地に伝えられてきた”伝説”の中にありました。そして調査を進める中で、私はもう一つの壮大な物語「湖の記憶」と出会うことになったのです。

第1~4弾がまだの人はお先にどうぞ。

1.古代の湖と百済人たちの干拓伝承

丹生山にかつて存在したとされる大寺院。江戸時代に書かれた『丹生山縁起』には、その開祖が「百済の王子」であったと記されています。王子は明石の浜に上陸し、最終的に丹生山北麓の「戸田」に至ったといいます。

最初は半信半疑でした。しかしある郷土資料を手に取ったとき、伝説の輪郭が徐々に見えてきたのです。

伝説に光を当てた一冊の郷土資料

『神戸市淡河の歴史』(昭和43年・明本東海 著)――地元・永徳寺の住職であった著者が、郷土史家・下田勉氏の指導のもと、5年の歳月をかけてまとめた淡河町の郷土資料です。地域の神社や寺に残された古文書を丁寧に調査・写本し、土地に伝わる伝承を今に伝える貴重な記録となっています。

その中に、私が探し求めていた物語がありました。

王子に従って日本に渡ってきた約250人の百済人は、戸田や三津田に定住しましたが、やがて人口の増加により食糧不足に直面します。

そこで彼らは、戸田の人々から「北方(現在の淡河)に湖がある」と教えられ、湖の水を志染方面へと流す水路(宇洞)を切り開くという壮大な計画を実行に移したといいます。

こうして湖は、数百年をかけて徐々に水位を下げ、やがて広大な田地へと姿を変えていったのです。

宝亀10年(765年)には住吉神社を、翌年には歳田神社を創建。奈良時代にはすでに、干拓地での定住と信仰が根づいていたことがうかがえます。

古文書と住民の記憶が語る「消えた湖」


水神を祀るために建立されたと伝わる歳田神社(神戸市北区淡河町)

実は「かつて淡河に大きな湖があった」という言い伝えは、『山田郷土誌』にも記されており、私も以前から知っていました。けれど、現在の淡河に広がるのは一面の田園風景。とても湖があったとは思えず、それこそ「ただの伝説だろう」と無視していたのです。

しかし、『神戸市淡河の歴史』を読み進める中で、私の認識を覆すような記述に出会いました。

江戸時代の古文書『国次先祖遺書之事』――住吉明神社の神主・国次左衛門が記したこの文書には、こう記されています。

古者淡河川之谷者、水海(湖)海也…
谷筋治水湧々満候…其時頃下村者開始如田地

「かつて淡河川の谷は湖であった。その水を治めて田地へと変えていった」――まさに百済人による干拓の伝承と一致する内容です。

また、淡河町が発信するウェブマガジンでも、飛鳥期に「泡河湖(アワゴコ)」と呼ばれる湖があったという伝承や、歳田神社がその干拓を記念して水神を祀るために建立されたことが紹介されています。

実際に地元の方々からも「昔は湖があったと聞いている」という証言が寄せられており、水とともに生きた土地の記憶が今もなお息づいていることを感じました。

地名に残る、湖の記憶

かつて淡河には、「湖の時代」を思わせる地名が多く残されていました。

たとえば『神戸市淡河の歴史』には、「魚淵」や「船崎」といった地名が紹介されています。魚が泳ぐ淵、船が着く岬――いずれも水辺を連想させる名称です。

これらの地名は今では地図から姿を消していますが、海から遠く離れたこの山あいの土地に、なぜこうした地名が存在していたのでしょうか。それは、かつての風景が今とはまったく異なっていたことを伝えているかのようです。

考古学が語る、淡河の深い歴史

では、考古学の視点からは何が見えてくるのでしょうか。淡河町内にある中村遺跡や萩原遺跡の発掘調査からは、意外な事実が明らかになっています。

なんと、これらの遺跡からは縄文時代の土器や石器が多数出土しているのです。

百済の王子がこの地に渡来したとされるのは6世紀ごろ。けれど淡河の歴史は、それよりはるか昔、数千年前の太古の時代から続いていました。

特に中村遺跡では、縄文・弥生・古墳・中世に至るまでの複合的な生活の痕跡が発見されており、この地に何世代にもわたって人々が暮らし続けてきた歴史を物語っています。

渡来文化との接点

さらに中村遺跡では、朝鮮半島系の土器も出土しています。これにより、淡河が古代から外来文化と交わる開かれた土地だった可能性が浮かび上がります。

もちろん、これだけで百済の王子の伝承を裏づけることはできません。それでも、こうした考古学的な発見が、伝承が生まれる背景を考える上で重要な手がかりとなります。

湖の有無をめぐって

一方で、「淡河に湖があった」という干拓伝承については、考古学や地質学の立場からは否定的な見解もあります。現時点で湖を示す遺構や地層は発見されておらず、「湖が存在したとは考えにくい」とする専門家もいます。

それでも確かなのは、淡河が太古から人々が暮らし続け、外の文化ともつながっていた土地であるということ。

伝説と科学が交わるその狭間に、私たちがまだ見落としている「もうひとつの真実」が眠っているのかもしれません…。

2. 時を超えて響き合う、二つの湖の物語


神戸市北区山田町衝原

淡河の湖水伝説を追いかけているうち、ふと脳裏にもう一つの「湖」が浮かびました。丹生山を挟んだ南側にある『衝原湖(つくはらこ)』です。

衝原村――かつてその場所には、古くから人々が暮らす集落がありました。日本最古級の民家「箱木千年家」が建ち、街道沿いの村として人々の往来でにぎわっていたといいます。

しかし昭和の時代、その歴史は突如終わりを迎えます。三木市などへの水供給を目的に建設された「呑吐ダム」によって、村は湖の底へと沈んだのです。

湖に沈んだ村


昭和53年、呑吐ダム建設に伴い旧社地から現在の場所に移転された衝原大歳神社

住民たちは「絶対反対」を掲げ、18年にわたる闘いを続けました。それでも最後には、子や孫たちの未来のために、補償条件を交渉しながら移転を受け入れる決断を下します。

昭和53年には、村の終焉を告げる「解村式」と、新たな土地での出発を祝う「開村式」が執り行われました。「つくはらの郷」という新たな名前とともに、静かにその幕を閉じたのです。

「あの時、平和で素朴な生活を送っていた私たちは、谷底に突き落とされたような思いでした。それからの不安と焦りの十八年間…」

式典で述べられる住民の言葉は、いずれも湿っぽくなりがちだったといいます。記録によれば、華やかな式典の中で参列者の表情はどこか曇っていたそうです。

千年前、水を治めて新たな大地を生み出したと伝えられる淡河の人々。
そして昭和、水のために故郷を失った衝原の人々。

丹生山の北と南に語り継がれてきた、二つの「湖」の物語。ひとつは、古くから伝えられてきた民間伝承。もうひとつは、記録に刻まれた現代の記憶。

時代も背景も異なります。けれど、水とともに生き、水に翻弄されてきた人々の営みは、どこかで呼応しているように感じられるのです。


神戸市北区山田町衝原

3. 山深い集落に残る「百済」姓


神戸市北区淡河町南僧尾

取材の終盤、驚くべき情報が舞い込みました。淡河の「南僧尾」という集落に、「百済」姓の家が何軒かあるというのです。

百済――まさに、あの王子の故国の名。千年の時を超えて、その名が今もこの地に息づいているというのでしょうか。

時が止まったかのような集落で


神戸市北区淡河町南僧尾

山深い道を進み、辿り着いた南僧尾。そこには、まるで時が止まったかのような静かな集落が広がっていました。そして、そこに佇む民家の表札に「百済」の文字を見つけた瞬間、息を呑みました。

「ほんとに…あった…」

けれど、その家には人の気配がなく、訪れたときはご不在。私はあきらめきれず、周囲の住民に声をかけて回ることにしました。

ところが、「百済さんの名前の由来?この土地の古い歴史?詳しくは知らんなぁ」と、誰も首をかしげるばかり。

ようやく得られた、一筋の証言


神戸市北区淡河町南僧尾

「あの人なら知ってるかも」を繰り返し、最後に紹介していただいたのは、すでに南僧尾を離れて暮らす男性。この土地の歴史に詳しい方だと聞き、私は電話で話を伺いました。

「この辺りに人が住み始めたのは1300年代ごろと伝えられています。最初は丹生山から下ってきた人たちが開いたとされていて、そのあと今の百済家の先祖にあたる人が移り住んできたそうです。確かその家の人は何か”技術”を持っていて、村の人からとても重宝されたって話しだったと思います。」

百済の王子が丹生山に寺を開いたとされるのは6世紀。そこからは、およそ800年の開きがあります。直接のつながりを証明できる資料は、今のところ見つかっていません。

それでもなぜ、この山間の地に「百済」の名が?

神戸市指定文化財「百済家住宅」、百済家本家との出会い


写真中央:神戸市指定有形文化財の「百済家住宅」※所有者の許可を得て撮影・掲載

そんな中、ついに「百済家」の本家にあたるご当主と直接お話しする機会を得ました。ご当主は、私のこれまでの調査内容にも丁寧に耳を傾けてくださいました。

しかし驚いたことに、「百済」という姓の由来については家に何も伝わっていなかったのです。

「うちでは特に、名前の由来などは聞いていないんです。」

本家の方がご存じないとなれば、もう手がかりはないのかもしれない――そう思いかけたとき、別の角度から新たな手がかりが見つかりました。

自ら選んだ「百済」という名

手がかりのひとつは、『兵庫のなかの朝鮮』(2001年)という書籍に残されています。

三木市吉川町出身の著者が、淡河出身の「百済」姓の同級生について父親に尋ねたところ、返ってきたのはこんな言葉でした。

「ここらでは、えらい旧家や」

のちに著者がその家の本家を訪ねた際、そこが江戸時代に庄屋を務め、苗字帯刀を許された由緒ある家柄であったことを知ります。そして、何より印象的なのは次の点です。

この家の姓「百済」は、明治五年の創氏改名の際に、自ら選んだものだったというのです。

なぜ「百済」という姓を選んだのか

それまでこの家が名乗っていたのは、ごく一般的な和風姓だったそうです。しかし、なぜ「百済」という古代国家の名を選んだのでしょうか。

明確な記録は残っていません。けれど著者はこう推測しています。

「代々“百済”と因縁のある家伝があり、それを思い起こして名乗ったのではないか」

また別の研究者は、「この家は、かつて丹生山明要寺の創建に随行して帰化した僧侶の末裔だった可能性がある」と指摘しています。

確かなことは、今となっては誰にもわかりません。けれどその姓には、家系と土地に刻まれた“記憶”が宿っているように思えてならないのです。

消えた地名「百済ヶ原」の痕跡


神戸市北区淡河町南僧尾

さらに調査を進める中で、この土地の地名にも「百済」の痕跡が残されていたことがわかってきました。『改訂版 北区の歴史』には、郷土史家・下田勉氏による次のような記述が掲載されています。

「寛永三年(一六二六)一月の北僧尾地蔵堂の棟札や、享保三年(一七一 八)三月、山田町小部万福寺の棟札に「淡河庄曽尾村百済ヶ原大工藤原朝臣….. 」とあるように、南僧尾村の新善寺周辺を往時、百済ヶ原といったもので、その付近の家がすべて百済姓を名乗っている」

棟札とは、神社仏閣の建立や修理の際に屋根裏などへ納められる木札のことで、施工年月や職人名、出身地などが記されています。江戸時代の複数の棟札に「百済ヶ原」という地名が明記されていたことは、この名称が当時確かに使われていた証拠といえるでしょう。

現在の地図から消えた「百済ヶ原」


南僧尾観音堂(神戸市北区淡河町南僧尾)※兵庫県指定重要文化財

では、その「百済ヶ原」は具体的にどこを指していたのでしょうか。

下田氏によれば、南僧尾にあった新善寺の周辺一帯を指していたといいます。新善寺は時代の流れの中で廃寺となりましたが、新善寺の本堂にあたる南僧尾観音堂は、この集落の高台に今も残されています。

つまり、「百済ヶ原」と呼ばれていたのは、現在の南僧尾集落の一角にあたる場所なのです。

今では地図にその名を見つけることはできません。けれど江戸時代の棟札に刻まれた文字が、失われた地名の存在を、静かに、そして確かに伝えています。

千年の時を超えて響き合う、いくつもの物語

ここまでの調査で見えてきたもの――それは、驚くほど具体的で、しかも互いに呼応し合う物語の数々でした。

  • 丹生山の開祖と伝わる百済の王子
  • 王子に随行したという250人もの百済人たち
  • 彼らが成し遂げたとされる湖の干拓

そして――

  • 淡河の地に語り継がれる「湖の記憶」
  • 実際に出土した朝鮮半島系の土器
  • 今も南僧尾に生きる「百済」姓の人々
  • 「百済ヶ原」という失われた地名

これらすべてが偶然の一致なのでしょうか。それとも、私たちがまだ知らない歴史の真実が、断片となって各所に残されているのでしょうか。

いよいよ最終章へ

本来ここで「百済の王子編」は完結する予定でしたが、思いのほか物語が広がり、もう一話だけ続けることにしました。

次回、ついに最終章!重層する“王子伝説”と、丹生山の山上に今も残る王子の「痕跡」。そして筆者が最後に見た景色とは?どうぞお楽しみに!

◆参考文献
・『神戸市淡河の歴史』(昭和43年)
・『山田郷土誌 第二篇』(昭和54年)
・『改訂版 北区の歴史』(平成8年)
・『兵庫のなかの朝鮮』(平成13年)
・『新修 神戸市史(歴史編II 古代中世)』(平成22年)
・『稲田を舞台に淡河の歴史を刻んだ人たち』(令和5年)

【取材・文】ともみん
神戸市北区の地域情報を中心に執筆し、不定期で投稿している神戸在住のライターです。
大学卒業後は、大阪・東京・アメリカ・カナダと移り住んだのち神戸へ帰神。やっぱり神戸が落ち着く。
国内の自然を巡るひとり旅にもハマり中で「ともみんタビ」というYoutubeチャンネルで旅Vlogも配信しています。

 

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