北区にある、気になってた『鳥居』を調査【第六弾】秀吉が焼かなければ兵庫最古だった!?百済の王子伝説が眠る幻の巨大寺院。地中に眠る謎とは

ともみん

神戸市北区の静かな山あいに、ほとんど知られていない「幻の大寺院」の跡が眠っています。その名は丹生山明要寺。驚くべきことに、この寺を開いたのは、海を越えてやってきた”百済の王子”だったと伝えられているのです。

もし天正八年、羽柴秀吉の焼き討ちがなければ——ここ神戸に、法隆寺に並ぶ「日本最古級の大寺院」が残っていたかもしれません。

第1~5弾がまだの人はお先にどうぞ。


神戸市北区山田町坂本

いまでは地元の登山者が時折訪れるだけの穏やかな山ですが、 かつてここには30もの坊を擁する大寺院があったといいます。

「百済の王子?そんなわけあるかい!」

そう思った方、そのお気持ちはよくわかります。しかし、そう簡単に笑い飛ばせない手がかりがいくつも見つかっているのです。

古文書には「百済国王子・童男行者」の名がしっかりと記され、 発掘調査では焼けた土器や青磁など、祈りの痕跡を示す遺物も出土しています。 山上には今も「船井坊」という航海を思わせる不思議な名が残り、周囲の土地には「百済」にまつわる伝説が点在しています。

さらに不思議なことに、すぐ近くの志染には、都を追われた日本の皇子兄弟が身を潜めたという別の王子伝説も。百済の王子と、日本の皇子たち——なぜ二つの王子伝説が同じ場所に重なっているのでしょうか?

今回は、古文書や発掘調査の記録、そして実際に現地を歩いて見えてきた手がかりから、この千年の謎に迫ります。

1. 志染の石室——日本の皇子たちの逃亡劇

丹生山から西へ下った志染の地。百済の王子とされる童男行者が最後にたどり着いたとされる戸田と、その後に開いたとされる高男寺の中間あたりに、『志染の石室』と呼ばれる場所があります。

ここには、百済の王子とは別の、日本の王子兄弟の物語が伝わっていました。

血塗られた宮廷から播磨へ

今から約1600年前、第21代雄略天皇の時代。権力争いで父を殺された幼い兄弟がいました。兄の億計王(おけのみこ)と弟の弘計王(をけのみこ)です。

皇位継承権を持つ彼らは命を狙われ、都を脱出。はるばる西の播磨まで逃げ延び、志染の山裾にある岩陰に身を潜めました。地元の人々は危険を承知で兄弟をかくまい、やがて二人は都へ呼び戻され、第23代顕宗天皇、第24代仁賢天皇として即位を果たしたのです。


日本書記には、まず丹波(現在の京都府北部)に逃れ、その後播磨に逃れたと記載される

史書が語る真実

この物語は決して空想ではありません。正史『日本書紀』には兄弟の播磨への逃亡と即位が明記され、『播磨国風土記』志染郡条には「この地の石室に天皇の皇子が隠れた」との記述があります。

そして地元では1500年以上にわたって、志染の石室こそがその”隠れ家”であったと語り継がれてきました。

黄金に輝く神秘の水

では、皇子たちが潜んでいたという「志染の石室」とは、どのような場所なのでしょうか?私は実際にその地を訪れてみました。


「志染の石室」(三木市志染町)

森の小道を抜けると、空気がすっと変わったような感覚に包まれます。崖の下にぽっかりと口を開けた天然の洞窟。その中には、水が静かに湛えられていました。

地元ではこの湧き水を「窟屋の金水」と呼びます。春の特定の時期、太陽が特定の角度から差し込むと、水面が黄金色に輝くのです。この輝きは「ヒカリモ」という微細な藻によるもの。限られた水質と光の条件が重なった時だけ現れる、自然が生んだ奇跡です。

今では科学的に説明のつく現象かもしれません。しかし古代の人々の目には、きっと神の気配そのものとして映ったことでしょう。

重なり合う王子たちの物語

・5世紀後半:宮廷の争いを逃れてこの地にたどり着いた日本の皇子たち
・6世紀半ば:動乱の続く祖国・百済を離れ、祈りの場を求めてこの地を選んだ百済の王子・童男行者

注目すべきは、これらの伝承が、地理的にも時間的にも極めて近い範囲に重なっているという点です。異なる時代、異なる背景を持ちながら、この地に「逃れ、祈った」二組の王子たち。その物語が、なぜ同じ場所に重なるのでしょうか。

ここからは、もうひとつの王子伝説——百済の王子・童男行者の足跡をたどってみましょう。

2. 海の向こうから見えた「約束の山」


瀬戸内海を通る当時の船のイメージ(AI作成)

6世紀半ば、戦乱の続く百済を後にして、一行は瀬戸内海を東へと進んでいました。

やがて彼らの視界に入ってきたのは、播磨灘の東北方向に浮かぶ、深い緑をたたえたひときわ印象的な山。その山こそが、丹生山だったのかもしれません。

地元の郷土史家・下田勉氏は『神戸史談 第264号』の中でこう記しています。

百済の交易船は、北九州を経て瀬戸内海を通り、 その治岸の所々の港や、交易船の終着港である難波津などでは、しばし仏像や経典を陸揚げしていたのであろう。 百済の船が、瀬戸の島々を通り抜け、広々とした播磨灘に至り、加古川口を通り過ぎると、東北に美しい姿をした高山が見える。丹生山である。

瀬戸の沿岸に見える山々と異って、この丹生山は、頂上に繁茂した樹林が望まれる。山頂に樹林が繁茂していることは、肥えた豊かな土壌もさることながら、地下水の豊富をしめすものである。 交易船から、仏縁の地を探し求めていた百済の僧侶は、潮待ちの港、明石の船上に上陸したのである。 山頂に樹林のあることは、人が住めることの証である。 すなわち、水があるからである。

豊かな緑と水の気配。その山の姿は、祈りの場を求めていた彼らの心に、何か強く訴えかけたのかもしれません。

古い文献にも残る「神の山」の記憶


戦後進められた植林政策のためか、現在の丹生山は他の山々とさほど変わらない姿に見える

その印象は、時代が下っても変わりませんでした。たとえば、古い地誌『西摂大観』でも、周辺の山々が禿山だったのに対し、丹生山だけは「欝々として樹木が繁り、奈良の春日山のような神々しい山」と記されています。

「祈りの地」としての出会い

百済には当時、山の上に寺院を建てる文化があったそうです。人里を離れた高地には、修行や祈りにふさわしい清浄な気が宿る——そんな感性は、日本の山岳信仰とも通じ合うものでした。

舟で海を越え、祈りの場を求めて山へ向かった一人の人物。その目に映ったのは、深く茂る森と、そこに確かに息づく水の気配。

はるか海の向こうから見えたその山は、単なる目印ではなく、彼らにとって「約束の地」だったのかもしれません。

3. 童男行者の足跡 —— なぜ「船」なのか

山頂に刻まれた航海の記憶

伝承によれば、童男行者は欽明天皇三年(542年)に明要寺を創建しました。もしこれが事実であれば、明要寺は兵庫県内でも最古級の仏教寺院の一つに数えられたことでしょう。しかし、戦国時代の焼き討ちや、明治の神仏分離を経て、いまやその姿を完全に失ってしまいました。

ただ、江戸時代に書かれた古文書『丹生山縁起』には、失われた歴史の断片を伝えるこんな一節が残されています。

行者放舟陟山誅第居焉因坊名船井
(※訳:行者は舟を離れ、山に登って住まいを建て、そこに住んだ。ゆえにその坊を「船井」と名づけた)

長い航海を終えた行者は、その旅路の記憶を込めて、山上の庵を「船井坊」と名付けたのです。

戦火を生き延びた「船井坊」


焼き討ちに遭う明要寺のイメージ(AI作成)

天正八年(1580年)、丹生山の明要寺(丹生寺)は、三木城の別所氏に密かに兵糧を供給していたことから、羽柴秀吉の軍勢によって焼き討ちに遭います(別記事)。寺は壊滅的な被害を受け、多くの堂宇が灰となったと伝えられています。

しかし、そのなかで――船井坊だけは例外的に生き残ったとされているのです。

なぜ、ただ一つの坊だけが命脈を保ったのでしょうか?

古い地誌『西摂大観』によれば、秀吉の従弟・奥山郎左衛門が船井坊の僧の法弟となり、寺領十四石と境内地の安堵を受けたと記されています。また、神戸市の公的資料にも次のような記述が見られます。

別所方に味方した丹生寺は寺領を関所とされたが、舟井坊のみは秀吉方に協力した功を認められ、山部荘内で一四石余を安堵されている

実際に火災を免れたのか、あるいは後に再建されたのかは定かではありません。しかしいずれにせよ、船井坊は規模を縮小しながらも、時代の荒波を越えて細々と存続を続けていきます。

4. 祈りの痕跡 ―― 墓石と位牌が語るもの

明治の廃寺、そして信仰の継承

明治維新——時代の大きなうねりは丹生山にも届きました。新政府の「神仏分離令」により、千年以上の歴史を刻んだ明要寺は廃寺となります。しかし、それは信仰の終わりではありませんでした。

廃寺となった船井坊の伽藍は解体され、その建材の売却資金で、神殿・社務所・鳥居・狛犬などが新たに整えられました。明要寺の「鎮守の杜」にあった山王社が、新たに「丹生神社」として生まれ変わったのです(『山田郷土誌 第二篇』)。

仏から神へ、形は変わっても、祈りの火は絶えることなく受け継がれました。

苔むした墓石に残る名と祈り

2025年9月、「義経道」と呼ばれる山道を登り、かつての明要寺歴代住職たちが眠る墓地を訪れました。「もう草に埋もれて、見つからないかもしれない……」そんな不安を抱えながら歩を進めると、静かな林の中に、苔むした石塔が整然と並ぶ一画が現れました。

そこに刻まれていたのは、歴代僧侶たちの名前でした。

江戸時代に建てられたとされるこれらの墓石。長い歳月で表面は摩耗し、文字の判読も困難になっていましたが、『山田郷土誌 第二篇』に記された通りの順番で、四世から十五世まで十三人の名前が読み取れたのです。

中には「阿闍梨(あじゃり)」の称号が刻まれたものも。これは高位の僧侶に与えられる尊称です。


比較的年代の新しいものは刻まれた文字がはっきりと確認できました

昭和48年、長らく雑木に覆われていたこの墓地は、地元の有志によって整備されました。それから約50年。今も墓石がここに佇んでいるのは、誰かが忘れずに守り続けてきた証拠――そう考えると胸が熱くなりました。

復元された系譜と、坂本に残る位牌


江戸後期に建立されたと考えられる丹生山開祖~八世までの位牌(右から2番目)

さらに興味深いのは、山麓の坂本に保管されている位牌の存在です。そこには開祖・童男行者から八世までの名が刻まれています。6世紀の開山から数えて八代——実に千年を超える系譜が、一つの位牌に記されているのです。

もちろん、この位牌自体は6世紀のものではありません。

戦国時代の焼き討ちで、明要寺の古い記録は失われました。しかし江戸時代後期になって、九世・法印浄性という僧侶が、失われた「開祖からの系譜」を改めて一つの位牌にまとめ、供養したと考えられています(『山田郷土誌 第二篇』)。

実際に現地で確認すると、位牌には金泥または金箔が施され、蓮華座を備えた荘厳な造りでした。まさに江戸後期の様式です。


中央に「丹生開山童男行者以来代々先師尊霊」と記載される

つまりこの位牌は、失われた歴史を後世の人々が懸命に復元し、供養しようとした証なのです。形を変え、時に途絶えそうになりながらも、この山の祈りは確かに受け継がれてきました。

枯れない井戸と咲き続ける桜


明要寺跡

現在、丹生山の山上には「明要寺跡」と呼ばれる一画があります。ここが童男行者の開いた「船井坊」があったとされる場所です。いまでは広い平地の中に、石碑とベンチのみがポツンと佇んでいます。

その裏手には、谷のように落ち込んだ斜面があり、その下に地元で「井戸」と呼ばれる構造物がひっそりと残されています。水源の名残なのか、祈りの場の一部だったのか。いつ誰が造ったのかも定かではありません。

ただ、標高500メートルの山上にある井戸が、なぜか水を絶やすことがないといいます。それは奇跡なのでしょうか。あるいは、童男行者がこの山の確かな水脈を見抜いていたことの証なのかもしれません。


丹生山の開祖・童男行者を祀るお社(左)独鈷桜(右)

そして丹生神社の本殿横には、童男行者を祀る小さな社があり、その傍らには伝説の「独鈷桜」が今も生きています。幾度も接ぎ木を繰り返した小さな木ですが、春になると可憐な白い花を咲かせ、千年前の祈りを今に伝えています。

5. 地中の証拠 ―― 発掘が語る幻の大寺院

地中から現れた証拠

丹生山では、これまでに少なくとも2度の発掘調査が行われています。昭和54年(1979年)に元興寺文化財研究所が実施した「丹生山明要寺坊跡試掘調査」では、山頂から東へ延びる尾根の先端から、古代末から中世にかけて大寺院が存在していたことを裏づける遺物が数多く発見されました(『丹生山明要寺跡試掘調査概報』1979年)。

  • 二重の焼土層(複数回の火災を物語る)
  • 焼けた土器(平安~南北朝期)
  • 水晶(奉納品の可能性)
  • 通貨(中世銭貨)
  • 中国製の青磁器片


明要寺参詣曼荼羅図(室町時代)

なかでも注目されたのが、6メートル四方ほどの建物跡と、そのそばの小高い築山です。この築山について、調査報告書では仏教世界の中心「須弥山」をかたどったものではないかと記されています。

これらの遺構が、上図の『明要寺参詣曼荼羅図』のどこにあたるのかについては、調査報告書では中央部の舞台付近、『神戸史談 第298号』では本堂の右奥付近との見解が示されており、特定には至っていません。

とはいえ、絵図全体の構成は実際の地形や登山道の流れとよく対応しており、想像だけで描かれたものではないことは確かです。筆者自身も現地を何度も歩く中で、その整合性を実感しました。今後の調査によって、絵図と遺構との関係がより明らかになっていくことが期待されます。

それでも全貌は見えない


神戸市北区山田町坂本

かつて30もの坊があったと伝えられる明要寺。その全貌はいまだ謎に包まれています。発掘されたのはほんの一部で、大半は今も地中に眠ったままなのです

平成17年に神戸大学によって行われた分布調査では、山内各所の平場や石造物の記録が進みましたが、全体の伽藍配置や信仰空間の構造を描き出すには至っていません。

けれど「まだ見つかっていない」からといって「存在しなかった」とは言えません。

思い出されるのは、島根県・出雲大社の例です。『古事記』や『出雲国風土記』に描かれてきた「天まで届くような巨大神殿」は、長らく“神話の世界の話”とされていました。ところが平成12年、その伝承を裏づける巨大な三本柱の遺構が発見され、実在が証明されたのです。

つまり、「ただの伝説」だと思われていたものが、つい最近になって“事実だった”とわかった例が、私たちの身近な場所に実際にあるということです。丹生山の伝承もまた、いつの日かその全貌が地中から語られる日が来るかもしれません。

6. 伝説と史実が交差する場所で

偶然とは思えない符合

丹生山をめぐる取材を重ねるうちに、次々と現れたのは、偶然では片付けられない不思議な符合の数々でした。

  • 麓の坂本に伝わる「百済の王子」伝承
  • 古文書に記された「百済の王子」の文字
  • 西戸田の舟人伝承と、山上に残る「船井坊」の名
  • 同じ王子が開祖と伝わる「高男寺」
  • 三木の鍛冶職人と渡来系豪族「韓鍛首」
  • 淡河の湖伝承、消えた地名「百済ヶ原」、残る「百済」姓
  • 咲き続ける祈りの桜「独鈷桜」

これらはすべて断片的な証拠にすぎません。しかしパズルのピースのように組み合わせると、「かつてこの山に、海を越えてやってきた特別な人物がいた」という物語がおぼろげながら浮かび上がってきます。

「百済の王子」は実在したのか?


山上の丹生神社でみかけた海を渡る蝶「アサギマダラ」

童男行者は本当に百済の王子だったのでしょうか。それとも、渡来僧だったのでしょうか。千年以上の時を経た今、その答えを確かめる術はありません。

けれど取材を進めるうちに、一つの可能性が見えてきました。

すぐ近くの「志染の石室」には、5世紀後半、都での権力争いから逃れてきた日本の皇子兄弟の伝説が残っています。『日本書紀』にも記された史実です。

そしてその約半世紀後、6世紀半ば——百済から渡来した僧侶や技術者たちが、この地に寺院を開きました。発掘調査や古文書が、その痕跡を確かに伝えています。

私はこう考えます。

「この地には、高貴な人が逃れてきた」——そんな二つの記憶が、時を経るうちに人々の語りの中で混ざり合い、やがて一つの壮大な物語へと昇華していったのではないでしょうか。

それは「歴史の歪み」ではありません。人々が大切に守り伝えようとした、この土地の誇りそのものだと思うのです。

伝説が語る「本当のこと」

この山には千年以上前から人々が登り、祈りを捧げてきました。山上には「船井坊」という航海を思わせる名が残り、古文書には「百済国王子」の文字が記され、発掘では青磁や焼けた土器が出土しています。

そして何より——戦火にも、廃仏毀釈にも耐えて、人々はこの物語を語り継いできました。それは、この地に確かに存在した「海の向こうから来た誰か」への、千年越しの敬意なのかもしれません。

おわりに —— 千年を超えて


丹生山から撮影した明石海峡大橋

丹生山の山頂から、今は明石海峡大橋が見えます。千年前、童男行者がここから見た海に、その橋はありませんでした。けれど、海の向こうから新しい何かがやってくるという流れは、今も昔も本質的には変わりません。

山の井戸は今も水を湛え、桜は春を待ちます。

かつて「ただの伝説」と思われた出雲大社の巨大神殿が地中から姿を現したように、 丹生山の物語も、いつか新たな発見によってその真の姿を見せてくれる日が来るかもしれません。

◆参考文献
・『丹生山縁起』(元禄13年)※『西摂大観 郡部(武庫郡北部)』(昭和40年)所収
・『西摂大観 郡部』(昭和40年)
・『西摂大観 上巻』(昭和40年)
・『神戸市淡河の歴史』(昭和43年)
・『山田郷土誌 第二篇』(昭和54年)
・『神戸史談 第264号・第298号』(昭和~平成期)
・『西戸田 里づくり計画』(平成9年)
・『神戸の文化財II』(平成18年)
・『志染の歴史』(令和3年)

【取材・文】ともみん
神戸市北区の地域情報を中心に執筆し、不定期で投稿している神戸在住のライターです。
大学卒業後は、大阪・東京・アメリカ・カナダと移り住んだのち神戸へ帰神。やっぱり神戸が落ち着く。
国内の自然を巡るひとり旅にもハマり中で「ともみんタビ」というYoutubeチャンネルで旅Vlogも配信しています。

 

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