観光地としてではなく、「街」としての神戸の魅力を語るとき、ローカルシーンに息づく独自カルチャーの話題は欠かせない。
似た嗜好を持つ人間が集い、コミュニティが形成され、そこから新しい文化が生まれていくような場所、店、そして中心人物。
そのつながりや神戸サブカルの奥深さを、取材をとおして紐解いてみたい。
そんな考えのもと、ディレクターT(神戸出身)、カメラマンY(愛知出身)、ライターS(四国出身)の3人で「アビョーン PLUS ONE」のマスター大川透さんを訪ねた。
大川透さん(66)
神戸生まれ、神戸育ち。「アビョーン PLUS ONE」マスターで「裸賊」ボーカル。
「アビョーン PLUS ONE」
神戸市中央区北長狭通3-1-4ツタニビル3F 17:00~25:00 火・水曜定休
ジャンルを問わずミュージシャン、アーティストが多く集い、人がまた人を呼んで交流が生まれる神戸のカルチャースポット的バー(看板には「居酒屋」とあるけど、気分はバー)。前身は、震災で職を失った大川さんが、1998年に立ち上げた「ONE PLUS ONE」と、アーティストの西村房子さんのお店「アビョーン」。
2つのお店の間でお客さんがかぶっていたことと「ONE PLUS ONE」の営業不振のため、じゃぁ一緒にやろうということで、2003年に「アビョーン PLUS ONE」として現在のスタイルになった。
客層は20代から80代までと幅広い。西村さんの作るアテが人気。あと、野菜をたくさん使った定食が絶品!
街の風景がどんどん変わる70年代、三宮に行くたびワクワク。
ー(Y) 大川さんは春日野道出身だから、子どものときからこの辺で?
そう。60年代、70年代だね。僕は音楽だけじゃなく、ファッションや本、アートも全部ひっくるめて興味があった。1970年代に大丸でアンディ・ウォーホールの作品展があって、カルチャーショックだったね。あとで聞いた話では、「バンビ」(三宮駅近くにあったジャズ喫茶)におった先輩が(作品展をやるために)動いたみたいね、直接会いに行ったらしい。その図録とかは今でも家にあると思う。ポスターもある。
1970年、よど号のハイジャック事件があって、三島由紀夫の割腹事件があって、1972年にはあさま山荘事件。この1972年が、僕が高校に入る年やった。
その72年に、中島らもさんが本にも書いてるけど、芦屋川の川沿いでイベントがあって、「フラワー・トラベリン・バンド」を呼ぶという。それを僕らは近所のレコード屋からチケットもろて行ったわけよ、丸坊主で。
それが初めての野外ライブの経験やったかなぁ。
ー(T) 今みたいにネットのない時代、情報収集は?
まず、雑誌。あのころは何冊かあったけど、たとえば「ミュージック・ライフ」の後ろの方にイベントの告知があったり。そこに山口冨士夫のインタビューが載ってて「村八分ってなんや」と思ったり(笑)。
ー 笑
あとはお店。ジャズ喫茶なんて爆音で喋れない。でもやっぱり、「よく見るね」と声をかけることが増えていって、知り合いになっていろいろ教えてもらえたりする。
ロック喫茶やジャズ喫茶に出入りしていると、雑誌もあるし、そこの連中と喋ったりできてそこが情報源になっていく。
東京とかからも人が来るわけ。当時は、ネットの代わりに伝言ゲームじゃないけど「神戸遊びに行くんならそこに行け」みたいな口コミの情報があって、神戸の拠点にみんながつながっていた。
ー(T) 同世代の友達も同じ感じでしたか?
いや、なかなかみんなそこまではいかん。今と一緒ちゃう?
そういうアンテナ持つ人は、みんなではない。どの時代も変わらへんと思う。ただ僕の周りの同級生たちは、いわゆるフォーク系の影響もあってギターを弾いた。
僕も中3のころに同級生が東京に行くからということで、ギターを安く譲ってもらった。
ガレージがある家の子はエレキを買うてもろて弾くこともあったけど、僕は生ギターから始めるしか仕方がなかった。
それで、またバイトしてええギター買おかと思って、73年かな、知り合いが勤めていた喫茶店に僕も務めることになって。
16歳くらいのころ。そこのマスターがジャズ喫茶の「バンビ」にもよく行ってはった人で、ジャズや幅広い音楽を聞かせてくれてかなり勉強になった。
学校終わってから働いて、閉店後マスターの好意でみんなで演奏したり、ギターの練習もできた。
16歳のころ。バイト先の喫茶店にて。
マスターが教えてくれた「バンビ」は、当時は改装が入ってて、一年以上閉まってたから、1973年の冬か、1974年に新しくなってから行くようになって。
中島らもさんが集まってた時代よりちょっとずれるんだけど、その一派とつながりができて、今、僕が80年代にデビューした 「EP-4」の別ユニットの「UNIT-P」っていうのに参加させてもらってるんだけど、そのメンバーの鈴木創士さんとも「バンビ」の流れで知り合ってて。
ー(T) お話を聞いてると僕のころと同じです。僕もだいたい、16くらい、中学校卒業するかせんかくらいで、いろんな先輩と知り合って、行動範囲も広がって。
一緒やと思う。ただ時代が違うだけ。ほんまに何もない時代やったけど、楽しいことやってると聞くとワクワクするし、そっちを見てみたくなる。
三宮が近かったから自転車で動けるわけよ。ライブハウスとか何もない時代だから、「神戸国際会館」で開催されるレコードコンサートのチケットをもろて友達誰かと連れだって観に行くとか、そんなんでちょこちょこ三宮が変わっていくのを見ていた。
三宮市場がサンプラザになっていく、センター街がだんだん広くなっていく。1970年から、風景がぼんぼん変わっていく。ワクワクしてた。三宮に出るのが楽しい。そんな風景を見ながら、ジャズ喫茶に行ったりとか、ロック喫茶に行ったりとか、楽しいことを段々覚えていった。丸坊主やったけど。
ー(T) 神戸は中学生は丸坊主やったんですよね。僕らの世代も全員丸坊主。自由になったのは僕のあとくらいから。
丸坊主で青春うばわれたようなもん。「イージー・ライダー」やらヒッピームーブメントの映画を観に行って触発されてるのに、丸坊主。やっと僕が73年、74年で髪の毛が腰くらいまで伸びたら先輩らが切るしね(笑)。
大川さんが肌で感じた、50年ほど前の神戸の様子を語っていただきました。次回は、当時のデートスポットについてお話をうかがいます。
※記事内容は取材当時のものです。
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神戸のローカルカルチャーを取材で紐解き、発信する企画です。
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