
第1~6弾がまだの人はお先にどうぞ。

神戸市北区『丹生山田の里』
神戸市北区にある『丹生山』。
山のてっぺんにある神社の歴史をたどるうち、この山にはかつて、古墳時代に百済から渡来した王子が開いたと伝わる大寺院があり、さらに平安時代には平清盛がその寺に“月に一度”参拝していたということがわかりました。
しかし、私がずっと気になっていたのは別のことです。
・なぜこの土地は「丹生山田の里」と呼ばれ、なぜこの山は「丹生山」なのか。
・なぜこの山の神社には現在「丹生都比売命」が祀られているのか。
その答えを探すうち、神戸という街のはじまりにも関わる、あの古代の女王の名に行き当たりました。
神戸の始まりに関わる女王――神功皇后
数年前から神社仏閣を巡るようになり、あることに気づきました。神戸市内の神社の縁起を読むと、やたらと同じ名前が登場するのです。
『神功皇后(じんぐうこうごう)』——その名はこの街のあちこちに刻まれていました。
三宮の中心にある「生田神社」。”長田さん”と呼ばれる「長田神社」。さらには惣社神社、海神社、高取神社、三石神社、一宮神社、二宮神社、弓弦羽神社…。
どれも神功皇后の名を伝える古社です。

地図上で示すと、まるで星座のようにちらばる神功皇后の痕跡
また、戦前からあったという「神戸八社巡り」の風習。その起源にも、この女王の名が記されていました。※神戸公式観光サイト「Feel KOBE」観光スポット情報より
神功皇后が三韓征伐から凱旋帰国の途中、生田神社を建立したそうです。そして神のお告げにより生田神社周辺の八社を巡拝したといいます。そんなご縁があり、神功皇后の参拝順に従って一宮~八宮と名付けられたそうです。
なぜ神戸に、1800年前の女王の名がこれほど多く残されているのでしょうか?
戦前の紙幣の肖像になった謎多き女王

七社神社(神戸市北区山田町)
神功皇后とは、『日本書紀』に記される第14代仲哀天皇の皇后とされる女性です。『日本書紀』の記述によれば、3世紀前半(およそ西暦200年前後)の人物とされています。
伝説によれば、夫の死後、神の託宣を受けて自ら軍を率い、朝鮮半島へ遠征し(三韓征伐)、勝利を収めた——。しかもそのとき、彼女は妊娠中だったと伝えられているのです!

画像:Wikimedia Commons「1-Yen Banknote with Empress Jingu 1881」より
その実在は歴史学的には確認されていませんが、かつては一円紙幣の肖像にもなり、戦前の教科書にはその名が記されていました。
ところが戦後になると「伝説上の人物」として扱われるようになり、2000年代以降の教科書からは姿を消します。
かつて誰もが知っていた「国を導いた強き女王」は、今では神社の縁起や地域の伝承の中だけで生きる存在となったのです。
神戸と神功皇后の深いつながり

現在の神戸の街並み
それでも、神功皇后の名が神戸に数多く残るのは、彼女が朝鮮半島への遠征の際にこの地に立ち寄ったと伝えられているからです。
たとえば、生田神社の社伝によれば、神功皇后は三韓征伐の帰途にこの地で船が進まなくなり、神占を行ったところ、稚日女尊という女神様が現れ「この地に鎮まりたい」と告げたため、これを祀ったのが創祀の始まりと伝えられています。
『日本書紀』にも、神功皇后が帰途の海上で船が進まなくなったという記述があり、明石や西宮などにも同様の伝承が残されています。つまり、神戸一帯は神功皇后が立ち寄った寄港地の一つとして、伝承が連なっている地域なのです。
神戸という地名のはじまり

生田神社 一の鳥居(神戸市中央区三宮町)
ところで、「神戸」という地名の由来が、生田神社と深く結びついていることをご存じでしょうか。
古代の日本では、神社に奉仕する人々やその土地を「神戸(かんべ)」と呼びました。そして生田神社の周辺は、平安時代に「生田の神戸(かんべ)」として生田神社の社領となっていたと伝えられています。
この「かんべ」が、時代とともに「こうべ」に変化。それが今の「神戸」という地名になったと言われているのです。
そしてここで、ひとつの線がつながります。
生田神社の社伝によれば、その創始は神功皇后。つまり、神戸という街の名をたどると、そのはじまりには、あの伝説の女王の姿が見えてくるのです。
舞台は再び、丹生山へ

神戸市北区山田町「丹生山田の里」(丹生山から撮影)
では、なぜこの土地は「丹生山田の里」で、この山は「丹生山」と呼ばれるのでしょうか。地元の人に尋ねても、その理由を明確に語れる人はいませんでした。
大正時代の記録に残された謎
最初の手がかりとなったのは、大正時代の『山田村郷土誌』。そこには、こう記されていました。
『神功皇后が戦の出陣にあたり、この地で採れた赤い土(丹生)を船や武具に塗り、勝利を祈ったのが「丹生山田」という名の由来である。』

神功皇后が丹生を船や武具に塗る場面のイメージ図(AI生成)
——そして、ここで新たな謎が生まれます。
なぜ彼女は、この土地の赤い土(丹生)に“祈りの力”を見いだしたのでしょうか。その信仰の源流をうかがわせる記述が、奈良時代の地誌『播磨国風土記』に残されていました。
次回、「風土記が語る“赤い土”の奇跡」へと続きます。
【取材・文】ともみん
神戸市北区の地域情報を中心に執筆し、不定期で投稿している神戸在住のライターです。
大学卒業後は、大阪・東京・アメリカ・カナダと移り住んだのち神戸へ帰神。やっぱり神戸が落ち着く。
国内の自然を巡るひとり旅にもハマり中で「ともみんタビ」というYoutubeチャンネルで旅Vlogも配信しています。
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ここでもあの女王の名に出会うなんて——。
子供の頃から気になっていた石の鳥居。その謎を追いかけてはじまった私の調査は、思いもよらぬ古代の物語へとつながっていきました。