神戸に住んでいる人&活動する人を紹介する「神戸ピーポー」。
今回は、Googleなどで20年以上のキャリアを重ね、現在は神戸市に本社を置く医療機器メーカー「シスメックス」に所属する 神戸在住の「石原直樹(いしはら・なおき)」さんに注目。
ソフトウェア産業の最先端の街、シリコンバレーで長年活躍していた石原さんから見る「アメリカと日本の働き方の違い」や「神戸に戻ってきた理由」についても伺ってみました。
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石原直樹さんはどんな人?
神戸市北区鈴蘭台で生まれ育った石原さんは、六甲中学・高校を卒業後、「神戸大学」へ進学。熱意のある教授たちに感化され充実の学生生活を送っていたそうですが、再受験を決意。のちに東京大学へ進学します。
幼少期からコンピューターへの興味が強く、小学生の頃にはコンピューターゲームを作るなどして遊んでいたという石原さん。
一般人からするとすでに「天才の卵」のようなポテンシャルを感じますが、学生時代・社会人生活を通して、自身への劣等感を感じることは多かったそう。
その後、新卒で「NTTコムウェア」へ入社し2年ほど勤務しますが、研修先だったアメリカの企業「サン・マイクロシステムズ」へスカウトされ転職を決意。
当時ほとんど英語が話せない上に、まだ幼い子どももいて迷いもあったそうですが、石原さんが転職に踏み切る大きな魅力がそこにはありました。
それは、「ミコ・マツムラ」氏の存在。彼との出会いは、石原さんを興奮と劣等感の狭間で急成長させていきます。
シリコンバレー流が面白かった
「サン・マイクロシステムズ」の東京オフィスで働いたのはトータルで6年。
アメリカらしい働き方が定着した職場環境は、もともと海外への関心が高かった石原さんの価値観にフィットし、エンジニアとしても「すぐに役立つ技術」を着実に身につけていると実感する日々だったそう。
特に印象に残っているのは、石原さんが全体を仕切っていた「JavaOne」というエンジニアイベントでのこと。
その頃すでに別の会社で働いていた憧れの人「ミコ・マツムラ」氏に、基調講演スピーカーをオファー。
一度は断れましたが、石原さんの熱意に負けたミコ氏は、元々の予定を調整してまでオファーを受けてくれたそう。
石原さんがミコ氏は「やっぱり天才だ」と感じたエピソードがあります。
イベントの基調講演の際、いつも通り彼の話に参加者が引き込まれていきました。
その後、アプリケーションを表示しようとシステムにアクセスしたのですがまさかの「ネットワークエラー」が発生。スタッフは凍りつきます。流石に慌てているだろうとミコ氏を見ると、なんと彼は笑顔で「ネットワークの重要さ」について技術的な話をアドリブで始めたんです。
ミコ氏があまりに落ち着いていて、アドリブと思えないほど興味深い話を披露するので、参加者たちは不具合を“演出”だと勘違いしたほどでした。
石原さんは、ミコ氏が専門分野以外での造詣の深さと、プレゼンテーション能力に関心したそうです。
憧れのミコ氏との大仕事を終え、石原さんはGoogleへ転職。4年間東京オフィスで勤務した後、10年間本社のあるシリコンバレーで働きます。
周りには4~5ヵ国語を操るメンバーも珍しくなく、中には9ヵ国語を操る上司もいて、石原さんの言葉を借りると「八百万の神が集まる、そんな環境」だったそう。
常にハイレベルなメンバーたちに圧倒され、1時間に3回は自分への劣等感を募らせる瞬間があったそうですが、焦りや劣等感をモチベーションに変え、天才エンジニアたちを支える「テクニカルプログラムマネージャー(TPM)」として活躍します。
その後、地元・神戸へ戻って新しいキャリアを築きたいと考え、Googleを去ることになりますが、石原さんのキャリアの中で最長となる14年間働いた「Google」で驚いたのは「仕事のスキル」だけではありませんでした。
やりがいと責任感が高まるマインドセット
Googleで働いていた際、「働き方」について日本と大きな差を感じたことがあったと言います。
1つ目は、仕事の進め方が、一人が受け持つ範囲が広い「セル生産=Google(アメリカ)」であるということ。それに対比するのが「ライン生産」です。
(一概には言えませんが)日本の働き方は業務が細分化されていることが多いので、部分的には理解していても仕事全体への理解はそこまで高くなかったり、結果に対しての興味が薄れてしまいがち。
一方でGoogleでの働き方は、1人または少人数のチームで開発の最初から最後までを担当し、完成を見届ける場合が多いので、仕事全体へのやりがいや責任感が生まれやすいと言います。
※写真はイメージです。
2つ目は、新入社員などの若手にも分け隔てなく「リーダー」を任せるという点。
ソフトウェア開発においてトライ&エラーは必要不可欠。だからこそ、失敗を認めるカルチャーがあったし、失敗をカバーするだけの技術力もありました。
どれだけ小さなプロジェクトでも必ずリーダーを設けること、そして、若手メンバーがリーダーを担ったときには、陰でサポートしたり失敗をリカバーできるメンバーがチーム内にいるということ。
そうすることでその若手が次のプロジェクトに参加した時に、今度は別の誰かを陰で支える存在になれるんですね。
社員が会社(=仕事)に興味を持ち、失敗をいとわず向き合える環境をつくることがエンジニアのみならず「働くすべての人たち」のやりがいに繋がるのだと感じます。
新しい挑戦を地元・神戸で
日本と違って外資系企業では、リファラル採用(自社の社員から友人や知人などを紹介してもらう手法)が当たり前になっています。
石原さん自身も、これまで3度の転職を経験していますが、いずれも誰かからの「スカウト」があったり、「この人と働きたい」という石原さんの想いがあり実現したもの。周りの人たちと大きな影響を相互に与えながらキャリアアップをしてきた印象を受けます。
レベルの高い環境で切磋琢磨してきた石原さん。Googleで充実した生活を送っていたにも関わらず、なぜ神戸に戻ることを選択したのでしょうか?
「シスメックス」でも、これまで同様、実質的な「テクニカルプログラムマネージャー」としての立場は変わらないものの、社会・福祉という「身近な生活」に関わる分野の企業で働くことが、石原さんにとって新しい感覚や刺激になっているようです。
※写真はイメージです。
さらにこれまでのノウハウや経験を活かし「メンター」として積極的に後輩社員との関わりを持っているんだとか。
上司・部下という専門領域の異なる立場での面談や指導と異なり、より具体的な現場での課題へのアドバイスができたり、仕事への向き合い方などの心持ち、これからのキャリア形成など、幅広いジャンルで相談相手としてエンジニアと向き合っています。
神戸に戻ってから、石原さんは「シスメックス」で働く傍ら、会社という垣根を越えて、神戸のエンジニアたちとの交流の場をつくって、シリコンバレーで培ったノウハウや楽しさを共有することに、新たなやりがいを感じているんだとか。
スーパースターが優勝を目指すことも楽しいけれど、原石を集めて一緒に高め合いチームで優勝を目指すことの興奮は大きい。
いつか神戸が日本のシリコンバレーのような「ソフトウェア産業」の最先端を走れるよう、これからは「神戸のエンジニア」と向き合い、一緒にイノベーションを生み出していきたいと思っているそうです。
神戸ピーポー No.16「石原直樹」さん コメント
神戸との関係
神戸市北区で生まれ育ち、中高6年間を神戸の六甲に通い、神戸大学へ進学。その後、東京へ就職・アメリカ進出しましたが、約4年前に神戸へ帰ってきました。
おすすめポイント
カフェがとにかく多いです。東京やアメリカにもおしゃれなお店はたくさんありますが、オーナーの個性が光る「味わいのあるカフェ」がたくさんあって、コロナ禍には1日3軒ほどカフェ巡りをしたりしてました。1年ほど住んでいた須磨区にある「ボナルーカフェ」や「チャーパサル 」などはお気に入りのカフェのひとつです。
ひと言
仕事を通してたくさんの国へ行きました。「夜景のきれい」なスポットとして勧めてもらった場所へ何度も足を運んできたんですが、六甲山の夜景を超える景色はみたことがありません。学生時代6年間毎日通って見慣れていたはずの景色だけれど、一度離れたことでその魅力を再認識。光がギュッと集まった迫力の夜景は、神戸の地形ならではだと思います。久しぶりの神戸での生活、まだまだ行きたい場所がたくさんあります!